お侍様 小劇場 extra

     “春颯(はるはやて)、惑い風”〜寵猫抄より
 


        2


 春まだ浅き、弥生の朝ぼらけ。結果的には暖冬だった冬が、されど去り際は例年通りを気取るつもりか。油断しているところへみぞれもどきの冷たい雨が降ったり、どんよりとした曇天が続いたりもしつつ。今日は久々、朝早くからからりと晴れた上天気の週末で。大黒柱がご招待を受けての横浜へとお出掛けという島田邸では、働き者の敏腕秘書殿が、留守居がてらにお庭のお手入れの最中だったのだが。仔猫の久蔵とお顔を突き合わせていたところへと、珍しいお客様が訪のうて。

 『いつものお兄さんだよ、久蔵。』

 時折ひょこりと現れる、それはきれいな毛並みの黒猫。以前、お散歩の途中で出会った、隣町の呉服店の女性オーナーとやらが、ウチの子だと言っていたのと同じ子で。だが、だとすると、結構な距離をやって来ていることになる。成猫らしいので、そのくらいの運動量はあるのかも? 久蔵の方からも懐いているらしく、彼がやって来るといそいそと傍らへまで寄ってゆく。猫同士で通じるものも、何かとあるのだろうけれど、ただ、そこはやはりまだまだ子供なので、手加減を知らない手を出すことも多々あって。喧嘩にならぬかと七郎次がヒヤッとするたび、お兄さんからの躾けの猫パンチが的確に飛んで、見事なお仕置きをして下さるところまでが、

 “今回もワンセットだったねぇ。”

 やりすぎのご挨拶の報復として、痛くはない“空拳”の猫パンチをいただいたそのまま、鮮やかな段取りでもって、文字通り“首根っこ”を捕まえられてしまった悪戯っ子を受け取れば。彼もまた人の言葉、いやさ思うところを察するのが得手なのか、七郎次がどうぞどうぞと手を延べた先、彼らが出て来た縁側廊下のほうへとすたすた足を運んでゆき。ちょっぴり高い上がり框も何のその、身軽にひらりと そりゃあ優雅に飛び上がって見せ、

 「…。」

 その場でじっと待っているのは、足を拭わなくてもいいの?と問うておいでなのかしら。優美さは姿だけではないらしく、きちんと躾けられているのだということ、思い知りながら、

 「待っててくれて ありがとね。」

 受け取ったウチの子を両手へ抱えたまま、お気遣いをありがとうとの苦笑交じりに立ち上がった、今日はお留守番の敏腕秘書殿。足拭き用のハンドタオルを置いた窓辺へ、ゆったりと戻ることにした。





        ◇◇◇



 今時の若者たちの活字離れが嘆かわしいと、昔の若者だった大人らがしきりと口にするよになって久しい昨今。確かに、読書以外に娯楽が増えたのと、情報伝達の手段が様々に裾野を広げたそのあおり。紙媒体のいわゆる“書籍”は、その売上も継続的に減少中という困った状況になりつつあるらしいが。それに代わる…例えばPCや携帯電話で読める小説というものが持て囃されてもいる。そうやって中身に親しみ、それから同じ作家の本を逆上り、購入するという順番で、持ち運び出来て液晶画面よりは目に優しい“書籍”のほうへも関心が向くという購買層が生まれつつあるのでと。頭の固かった古参の出版社のお歴々を、新進の編集部や今時の事情にも精通しておいでの作家の方々が宥めたり窘めたりしつつ、新しい販路というものへと通じると説得し、この度 発足したのが“携帯ing文庫賞”という新人発掘の登竜門。ケイタリング(お持ち帰り)をもじったネーミングは、細かく言うと“持ち歩き”としたかった主旨とは微妙に意味合いが違うかもしれないのだけれど。まま、昔の若者がしたこと、大目に見てやってくだされと、人気のお笑いタレントがキャンペーンCMの中で偉そうにフォローしたのがまたウケて。公募開始前からなかなかの話題にもなっており。審査協賛に名を連ねたプロ作家の顔触れも、馴染みとしていて“半所属”となっている出版社別…という垣根を越えての、今を時めく著名な方々を揃い踏みとした豪華さなため、文壇自体がどれほどバックアップしているのかが知れる催し。だからこそ、本人の気性はともかく文筆活動方面では少々出無精な島田先生も、表立った場でのキャンペーンへ足回りも軽快に参加しておいでなのだったりするようで。

 「でもなあ、ご当人はいまだに“ワンフィンガー・パンチ”なんだけど。」

 シチさん、その言い方も結構な古さですよ…と、懇意にしている編集員の林田さんを苦笑させた余談はともかく。PCも携帯電話もさして操れない“アナログ”なお人なのにねぇと、こっそり苦笑をしつつ、それでも応援の姿勢を見せての、今日の開催レセプションへも送り出して差し上げた。余裕で日帰り出来る横浜でのセレモニーで さほどの遠出でもなし。それでも久し振りに顔を見る筋の方々もおいでなので、後夜祭なんてものではないながら、積もる話に引っ張られての泊まりがけということにもなりかねぬとのお言葉いただき。主催側のスタッフに林田くんもいることだし、私的にも時折利用するホテルなので勝手も判る。幼い家人もおりますしと、こたびは同行を遠慮した七郎次。その小さな家族にやっと出来た“お友達”の黒猫さんが、陽あたりのいいリビングまでをついて来てくれたのを見て、じゃあここで遊ぼうかと綿入りのムートン・ラグの上へ陣取って。

 「にあっvv」
 「あ・これ、久蔵っ。」

 さっそくの体当たりを敢行した“ウチの子さん”の無体に、またぞろ口許が引きつりかかったところで、


  ―― TRRRRR、RRRRRR、 …


 間近いテーブルに出していた自分の携帯じゃあなく、この屋敷の固定電話の方が鳴り出したのへハッとする。私的な交友関係のものや勘兵衛の仕事関係という連絡は、主に携帯のほうへと掛かって来るので。固定の方へと掛かって来るものといや、このところはセールスのややこしいものが大半であり。

 “米屋さんは週の頭にかかって来るしな。”

 思い当たるところもない以上、そういう筋の迷惑な電話なのかしらと。ややもすると出る前から、うんざりしたお顔になっていた七郎次であったのだが、

 「はい、島田で……あ、ヘイさんですか?」

 おやおや、知り合いのお兄さんの名前じゃあないですか。またもや前脚の一閃で、てんっとばかりにラグの上へお見事に縫い留められてしまったバンザイ姿勢のそのまんま、仔猫の久蔵がその小さな双手を胸の前あたりに合わせて見せる。

 「?」

 何の真似だと小首を傾げる黒猫さんには、久蔵が覚えた物まねがとんと判らなかったのも無理のない話。それが判る七郎次が、ちらりと見やった先の我が家の坊やのお茶目へと、ついつい笑い出しかけたものの、

 「…………え?」

 その端麗なお顔が不意に硬直してしまい、そのまま表情を失った。

 【 …大事はないとのことでしたが、
   それでも一応お知らせしなきゃと思いまして。】

 島田先生へと声をかけた出版社の代表ということで、今日は七郎次に成り代わり、連絡係を担当していた林田くん。結構早めに出たのは、週末とはいえ各ワイドショーや夕刊と称されるスポーツ紙で扱ってもらう対応も兼ねてのこと、セレモニー自体は明るいうちの開催と聞いていたからで。ちらと見上げた壁時計が指すのはそろそろお昼ご飯の支度に取り掛かってもいい頃合い。会食を兼ねた談笑の場をと設ける予定のレセプションの方は午後からと聞いていたため、その合間を縫っての連絡だろかと、軽い気持ちで聞き手になりかけた七郎次だったのへ。いつも穏やかそうに微笑っておいでの恵比須顔の編集員さんが伝えた内容というのが、

 『ホテル内のエスカレータで、将棋倒しが起きかけまして。』

 丁度前日の晩、妙齢のご婦人たちにたいそう人気のあるタレントだかアーティストだかが、同じホテルでディナーショーを催した。ショーの後 そのまま帰ったとされていたそのタレントが、実は打ち上げをしたそのままホテルに泊まったらしく。一体どうやってそんな情報を得るものか、熱狂的なファンの一群がホテル内をうろうろしてもいたらしく。そんな一団が、当人らしい人物がチェックアウトに出て来たという声に扇動されてのこと、一気にどっとロビーへ殺到しかかって。正確には、隣の商業施設からホテルの正面玄関へ連なっているエスカレータが、一気にぎゅうぎゅう詰めになってしまい、押され負けして転ぶ人が出始めてしまい。

 『あわやという惨事にはならなんだのですが。』

 何だか人の流れが不穏だなと気づいてた、ホテルと出版協会側のスタッフの方々が、要所要所に係員を配し、人の殺到をこれでも調整していたお陰様。何十人もが折り重なるように転ぶとか、いつぞや催事専用の集合施設で起きた、過積載によるエスカレータの誤作動なんてな事態にもなりはしなかったのだけれども。最初の何人かが危うく倒れ掛かったのを、間の悪いことにそこに居合わせた誰か様、文筆業に就いていながら 実は屈強な肢体や膂力を咄嗟に働かせて支えてくださった。そうやって取っ掛かりをしのいだことが一番の貢献となって、テレビで報じられそうな惨事にならなかったと言えるのだけれど。

 『島田先生でも支えられる限度というのはありましょう。』

 下りのエスカレータで、しかも後ろから落ちかかって来たご婦人を5、6人。ステップの溝に脚なり腕なりを擦りつけちゃあ、跡が残って可哀想だと思われたものか。ご自身が下敷きになるような受け止め方をなさったものだから、

 『皆が駆けつけ、
  のしかかってた方々を引っ張りあげての、
  怪我人はないとの無事を知らせると、そのまま昏倒してしまわれて。』

 つい先程のことだからか、伝える林田くんの口調も乱れがち。背後を行き交う喧噪のような声も届くのが、結構な騒動であることをまざまざと伝えて来。そして、

 【 大事はないとは、
   駆けつけたお医者様の見立てでもあるので確かな話ではありますが。】

 だったら…勘兵衛自身は何にも言わないままにするのじゃあなかろうか。隠す訳じゃあないけれど、瑣末なこと扱いにして“何事も起きなんだ”と、七郎次にはそんな言いようをするのではなかろうか。そうと気づいた気の回りようは、さすが…気難しいとの噂も高い、あの島田先生に若くして気に入られている有能編集員ならではな機転ではあったれど。勘兵衛がそんなお人じゃあないこと、よくよく知っていればこその、別の懸念がどうしても放って置けなかった彼であり。

 【 島田先生の身に起きたことですもの。
   だってのにシチさんが知らないではおかしいじゃないですか。】

 あああ、うまく言えなくてごめんなさいと、自分の言葉足らずへこそ苛立ったような声になっての付け足した彼だったのへ、

 「……いや、あの。」

 日頃のおっとりとした彼しか知らぬ、声しか知らぬ七郎次。歯痒そうになってる林田の様子がまざまざと伝わって来ることへ、そして…それが誰をどういたわっての、気遣ってのことかにも気がついて。ほとんど感覚的に察したことなだけに、どう返していいのやらと混乱しかかり。こちらもまた、日頃の版権代理人としての能弁さもどこへやら、しどろもどろになりながら、
「いやあの、私はそんな気遣いをされる身じゃあないので…。////////」
 何とか無難な言いようを紡いだところが、

 【 こんなときに何言ってますかっ。】

 えいと気合いの籠もったお声が。耳ではなくの胸底へ、とんと届いてどんと響いた。

 【 こんなときになんてそれこそ縁起でもありませんが、
   先生のこと、一番好きで一番大切で、
   だからこそ いつだって一番案じておいでのお人が、何言ってますかっ。】

 見ていてアテられこそすれ、不純だの疚しいだのというような、おおよそ七郎次が案じているような醜聞を招くような醜さなぞ一片もない睦まじさ。利己的だったり我欲が強かったり、我が我がという傲慢さのない、お互いへの信頼や敬愛のみで結ばれた、強くて暖かい絆のようなもののみを、いつも感じさせてくれるお二人だから。もしかして世間的にはまだ少々許容されない形のつながりであれ、尊重して見守っててあげたいと、常々思っていた彼だったらしくって。

 【 いいですね? そんなまぜっ返し、今度なさったら本気で怒りますよ?】

 もしかして微妙に年下のくせに。こっちは引く手数多な身だってのに わざわざ原稿書いてやっているという力関係にある先生からの、全権預かる代理人だってのに。そんなの関係ありませんと、それより私にゃシチさんの、心の持ちようの方が大事だと。気遣いしてくれたその上で、頑張って叱っても下さった希有な人。どっちが大人かを思い知らされたような気さえして、

 「……………………あ、ありがとね。///////」

 気恥ずかしさとそれから、多大な恐縮に圧倒されつつ。素直な心が零した声をそのまま、ちょっぴり尻すぼみな声音で伝えれば、

 【 判ればよろしい。】

 そちらは安堵の笑みを零したのだろ、小さな吐息混じりの声が返って来、
【 ともかく。先生の容態自体への大事はありませんが、昏倒なさったままなのでお部屋で寝かせて差し上げてます。】
 打ち身だなんだという症状が出るやもですが、ショック症状関係の症候群だの心筋梗塞だのという恐ろしい変異はないとのことで。気が張っていたのが一気にほどけて人事不省になられただけ。そういやスピーチの原稿に手古摺ったとも仰っしゃっていたから、寝不足気味でおいでだったのかもで。大役果たした直後という気の緩みも乗っかっての、気持ちのいい昏倒だと思いますと。そちらもやっと常の彼へと戻ったか、先程までの真摯さとは打って変わっての、至って楽観的なお言いようをしてくれた林田くん、

 【 ともあれ、伝えましたからね?
   お帰りになられたら、
   きっちりと絞ってあげるなり いたわって差し上げるなり、そこはご自由に。】

 余計なお世話の事後対処まで付け足して、それではと軽快に回線切ってしまったあっけなさ。
「………。」
 冗談口調の会話で終わったせいか、混乱しかかってた気持ちが妙な落ち方ですとんと落ち着いてしまって。しばし呆然と、今時の携帯電話より重いかも知れぬコードつきの受話器を、その頬にあてがったままでいた七郎次だったのだが、
「……あ。」
 何の電話だったかという“内容”を無意識のうちにもするすると後辿りし、そうして辿り着いたのが、

 「行かなきゃ。」

 何を置いてもと林田くんが伝えてくれたのは、勘兵衛の身へ降りかかった奇禍について。案じさせまいと教えない勘兵衛である恐れがあるのでと察した上で、でも、そんなの水臭いを通り越してのつれなさすぎると思ってくれての差し出口。それを聞いて…居ても立っても居られなくなったのは、自分は勘兵衛にとっては家族以下だとの言い分を持ち出しかかったの、悪あがきはよしなさいと勢いよく窘められてしまった反動かも。素直にありがたいと思った気持ちが、常の及び腰な部分をも払拭してしまったらしくって。事務的に構えれば…大事がないならやはり待とうという選択もあったけれど、そんなの我慢出来ようか。壮年となってもいまだ頼もしい勘兵衛だという把握があるがため、意識がないというのは心配だったし、それ以上に


  ―― 逢いたい と。


 封を解かれた弾みの恐ろしさ、というと言い過ぎか。だがだが、日頃だったらこんな程度の事態へは、大丈夫だからでんと構えていよとの態、何とか制御が掛かるほど自制も身についていたはずが。それこそ落ち着きなくしてしまっての、何を用意したらいいのかと右往左往しだしたほどであり。これまで押さえ込む格好で箍を嵌めてた部分の感情が、あっけないほど剥き出しにされた今。殊更にやわらかいところが、焦燥感に擦られてひりひり痛んでしようがない。

 “迎えに行く訳じゃあなし。”

 病院へかつぎ込まれたんじゃあなし、着替えだタオルだなんてのは大仰だが、それでも保険証くらいは持ってった方がいいんじゃないか。主寝室へ足早に向かい、クロゼットや整理タンスをがさごそ掘り返して。何故だか通帳や印鑑までもをセカンドポーチへ突っ込みかかり、いや待てそこまでは要らないかとの判断力が降りて来て。

 「えと、鍵は…。」

 今の時間帯なら車で行った方が早いかな。週末と言ったって金曜だし、昼前という頃合いなら高速も混んじゃあおるまいと、寝室を出がてら、家の鍵と一緒に束ねた車の鍵をも確かめたところで、


  ―― にあん?


 リビングからの可憐なお声が、これまでになかったほどの通りようで七郎次の耳へと到達する。本来だったら 連絡事項の刷り合わせやら身の回りのお世話やらにとついて行ってた筈のところ。どうしてこたびは別行動だったのか。勝手の判る会場だし、気の置けぬ主催だしということで、大人の勘兵衛よりも小さな家人の世話をと選び、お留守番をと言いつかった自分だったのじゃあなかったかと。気が急く中でやっとのこと 思い出しての足が止まった彼であり。

 「…そうだった。」

 落ち着いておれば…病院へ向かう訳でなし、確かバスケットに入れてあれば、仔猫連れの訪問でも大目に見てもらえたホテルだったこと、思い出せたはずだけど。大いに気が動転していたからそれどころじゃあない。玄関へと進みかかっていた脚を、回れ右さしてのリビングへ戻れば。淡い色合いのフリースの上下と、シックな色合いの真っ赤なボレロを薄い肩へとまとった小さな坊や。大窓から射し入る金色の陽を受け、すべらかな頬や甘くけぶる綿毛も愛らしく。ラグの真ん中へ足元崩してちょこりと座り、急に忙しくしておいでなお兄さんを、どうしたのとの小首傾げて見上げておいで。

 “どうしたら…。”

 特に無愛想に構えた覚えはなかったけれど、回覧板を回し合うくらいしかご近所付き合いのない身、いきなり見ていてくださいませんかと持ち込める話じゃあなかろうし。見ず知らずも同然な相手へ預けることには、七郎次の側でも抵抗がある。何と言っても普通の仔じゃあない。くれぐれもという念の押しようも一方じゃあ済まないほどに大事な坊やだ。他の人には仔猫に見えるから心配要らないかな。でもでも、ずんと賢くて器用なことが、変なことをする子だと見とがめられたら? テレビのリモコンくらいなら手で持って運んで来られることとか、熱いもの、ふうふうと吹いて冷ませるところとか。普通の猫はやらないことを結構こなす子なだけに、そちらもなんだか心配だと。こんな時なのに…いやさ、こんな時だから? 早く早くと急く気持ちを、ますますの動揺で揺さぶる迷いにとうとう目眩いがしそうになったところへ、


  ―― お困りですか?

  「…え?」


 不意に聞こえた、誰かのお声。小さな仔猫しか入っていなかった視野、ハッとしながら視線を上げての見回せば。リビングの戸口のところに人影が立っており、

 「その仔、何でしたら私が見ていましょうか。」

 そんな言いようをして下さる。年の頃は自分と同じくらいだろうか。若いのだか、いや実はもっと年上なのかもと思わせるほど、充実した落ち着きまとった男性で。スタンドカラーの濃色のシャツに、襟は無いがかっちりした型の上着を重ね。スーツというほど畏まってはないけれど、清潔そうで整った身だしなみが誠実そうな。それにしては、腰までありそうな黒髪というのが堅気の人とも思われないが。ウチにもそんな自由人がいるからだろか、そこはそんなに不審じゃなくて。


   …………………………………………というか


 どうしてだろうか。少々頬骨のとがった、鋭角な印象のする面差しの中、深い色合いの、それでも変わった光を帯びた瞳と視線が合ったその瞬間から。七郎次の思考がふわりと浮足立っている。集中出来ないというか、急に眠気が襲って来たというか、そんな曖昧さが感覚に滲みだし、思考から冴えが飛んで掴みようが無くなってゆくようで……。

 「…あの、それじゃあ おねがい でき ますか?」

 ああそうだ、この人知ってる。ほら、あの。いつも久蔵が遊んでもらってるお兄さんだ。隣町の呉服屋の、別嬪さんのオーナーが“家人です”と紹介してくれたじゃないか。勘兵衛様の大島の紬に合う帯を新調したくて、今度寄せていただきますねと話してたおりのことで、

 「あ、それと。車を使われるにしてもあなたが運転はしないほうが。」
 「え?」

 差し出された久蔵を、手慣れた扱い、それは丁寧に懐ろへと抱いて下さりながら。そのお人がにっこり微笑って付け足したのが、

 「そんな動転したままでハンドルを握っては、あなたも事故に遭いかねない。」
 「あ…。」

 電車を使うかタクシーを使うか。そのどちらかにした方がいいですよ…と。静かな口調での助言を授けて下さって。それもそうかと小さく頷きつつも、依然としてどこか呆然としたまま。手にしていたコートを羽織り、玄関の三和土
(たたき)へと降りての靴を履き。仕事関係のお出掛けならば、いっそもっと大きなキャリーケースになるものだから、日頃はあまりに持たないサイズ、小ぶりなセカンドポーチという荷物を提げての表へ出れば。この時間帯では車自体が滅多に通らぬはずが、空車の表示を出したタクシーが通りかかったものだから。無意識のうち、手を挙げて停めていた七郎次だったりし。ドアが開いて、間があって。それからそのまま発進してゆく気配を聞いて、

 《 出掛けたようだの。》

 ほうと吐息をついた彼こそは。言うまでもない、黒猫の姿をほどいた邪妖狩り。久蔵の朋輩の兵庫殿に他ならず。

 「みゅ?」

 友達友達と懐いていた猫のお兄さんが消えて、いきなり現れた知らない人へ、でも警戒は沸かないの、変だなぁとでも思ってか。キョトリと小首を傾げてる仔猫を腕の中へと見下ろして、

 《 …晩にならねばその封は解けぬのか?》

 十八時間制限とかいう“タイムロック式”かと、少々しょっぱそうなお顔になった兵庫殿だったのもまた、言うまでもなかったり。
(苦笑) 能力的な等級や力量には兵庫とさしたる差もないはずながら、強いて言えばムラっけがある久蔵だからか、関心のある戦闘関係の咒や技ばかりが飛び抜けており。平生の生活や何やに連なる咒は、平均的なものしか操れない。そんな偏りがあるからこそ、どんな大妖にも怯まず、死滅の危機をも恐れずにいられるほど、ずば抜けて強い彼なのだろかと。時折 素朴に思い及ぶこともあるけれど、

  ―― 何てことないものほど容易に扱えぬとは、何て難儀な奴だろか

 結局、そんな基本に立ち返っちゃあ、だあもう手間のかかる奴がと、手を貸してやるのがパターン化しつつある。今日のこのご訪問にしたって、

 『なに、お前がうっかりしとるので、咒をかけに行ってやろうと思うてな。』

 それは昨夜のうちのお約束。危なっかしい同輩が、何やら難儀に巻き込まれちゃあないか、逆に 引き起こしちゃあないかを確認するのも兼ねてのこと。何日かに一度と日を決めて、夜中の蛍屋の屋根の上で顔を合わせては、近況を訊いてやっているのだが。昨夜の顔合わせでは、まずはとそれを口にした兵庫であり、うっかりなどという無粋な言われようには、

 『…。』

 さすがに ちょいとむっとしたものか、その雰囲気が尖りかけた久蔵だったものの、

 『お前の姿、よそ人には猫にしか見えてはおるまい。』
 『…。(頷)』
 『しかも、だ。
  和子の姿に合わせてのこと、猫の外見は一向に育たぬままなのだろう。』
 『? …。(頷)』

 ここまで言ってやっても、何を言わんとしている兵庫なのかにピンと来ないような男だから世話が焼ける。

 『だから。あの二人がだ、
  生まれたての仔猫しか可愛がらぬ“人でなし”だと噂されたらどうすんだ。』

 『……っ。』

 そういうとんでもない人が、悲しいかな居るんだそうです。ちょっとでも育ってしまうと“可愛くなくなるから”と、ただそれだけの理由で遠くへ捨ててしまうよな非道を、屁とも思わぬ人が、割と若い層の女性に何人も。彼が身を寄せているところの二人がそんな外道じゃあないことくらいは、兵庫だって重々承知している、身近な知己の方々も同様だろう。だが、果たしてご近所様はどうだろか。生まれて間がない仔猫がいいのと、取っ替え引っ替えしてるんだよなんて、心ない噂を立てられたらどうすると。そこをまで案じてやっての、こたびの白昼のご訪問であり。

 “まあ…誰ぞにどう思われていようと、
  いちいち気にしちゃいなさそうな連中じゃああるがな。”

 お互いへの微妙な齟齬を抱えてはいるようながら…と、兵庫さんからもお見通しされている方向での案件はともかく。体裁とか体面とかいう方面へは、随分と剛毅でマイペースな彼らなようであり。だからこそ、久蔵という不思議な存在を、気味悪いとか不吉だなんて感じもせずに、手元において可愛がっていられるのでもあろうけど。

 “…というか。”

 その辺りの発端と経緯は、兵庫も同座していたのでよくよく承知。看過したなら今世随一というほどの規模にも育ちかねなかった、そりゃあそりゃあとんでもない大蟲妖が。彼らのどちらかを喰って滋養にし、残りの身へ宿ろうとしていた気配をいち早く察知した久蔵。仔猫へと身をやつして近づいた、一番最初の邂逅のその後で。今世での縁はこれでしまいと、離れ掛かった彼だったのに、

 『お〜い。』

 翌朝になっても どうした訳だか、彼らの記憶からこの久蔵のことが消えてはなくて。一つ宿世に一度の縁のはず、今世でのその関わりになっただろう、大妖封じた後だから尚更に。兵庫も手伝った“忘却の咒”によって、不思議な体験ごときれいさっぱり消えたはずが。おーいおーいと口許へ手をかざし、まだ名もない仔猫を懸命に呼ばわっていた彼らであり。

 『おらぬか。』
 『はい。どこにも。』
 『迎えが来たのかも知れぬ。』
 『ですが、ついうっかりと日頃同様の戸締まりをしていたのですよ?
  そうなってはどこからも出られやしないはずですのに。』

 親御が来たなら問題はないが、仔猫の姿も重々愛らしかった坊や、見知らぬ誰ぞに攫われたんじゃないかと思うと…と。細い眉を顰めてしまう七郎次に同調し、勘兵衛までもが表情を曇らせたほどに。それは案じてくれていた二人だったの、どうしたものかと見過ごせなくて。

 『…にあん。』
 『あっ。』

 しょうがないなと姿見せ、それから続くお付き合い。子供になんぞ縁もなく、不器用なまま右往左往するだけじゃあなかろうかと、危ぶんだのを…多少は当たっていたがそれでも何とか。不器用なままながらも、何とかかんとか頑張って。幼い家族が増えたのを、心から喜んでの楽しくも慈しんでくれている彼らであって。

 「にぃあ?」

 日頃は何を考えているのかも不明な、冷たくも無表情なばかりな同輩殿の。仔猫なまんまの、坊やなまんまの、それはそれは無邪気なお顔を見下ろして、

 《 どっちにせよ、仔猫の間のお前の咒力はかなり制限されているから。
   どう見えておるのかを保つのが精一杯で、
   そこまでのおまけを思い込ませる力までは発揮出来まい。》

 そこでの暗示の咒をわざわざかけに来てやったのだけれども、さてそれじゃあ取り掛かろうかと思った矢先のどたばたで。まま、七郎次や勘兵衛にかける咒じゃあない。厳密には彼らに関わった人へも影響が及ぶそれだけど、要はこの仔猫を見ても不審に思わぬようにするという手の咒だから、彼の行動半径にこそまずは掛けておく場所への範囲指定の咒だったりし。

 《 出先で話の辻褄が何かと合わんでも、恨まんでおくれよな。》

 そこまでのケアをしてやる義理はないということか。されど、済まぬという言いようをしているところからして、やっぱり人のいい邪妖狩りさんではあるらしく。懐ろに抱えた存在へも、当人は気づかぬままのことながら…いい子いい子とゆったり揺らしてやりつつ、それじゃあまずは邸内からと、奥行きのある洋館の中、一通り見て回ることにした兵庫殿であったらしい。……これで迷子になっても安心だね? 久蔵。


  「にあんvv」
  「待て待て待て、そこまでの面倒を見るつもりは……。」






BACK /NEXT **


  *一番最初のお話との辻褄合わせは、これでよろしいもんでしょか。
   姿を消したはずの久蔵殿ですが、
   どういう訳だか、そのおりの忘却の咒は効果を成さなんだのですね。
   これもまた絆や縁のなせる技というのでしょうかしら…。
(おいおい)
   ついでなんで、も少し続きます。(ふっふっふvv)


戻る